そんな

プログレッシヴロックはパンクロック

Aerosmithの『Walk This Way』をラップでカヴァーした後に

彼らのユニフォームと化していたAdidas(とLee)のジャージとシューズを湛えるリリック

『My Adidas』をシングル・カットしたトップ・ラッパーがRun-DMCでR

 

.     RUN DMC – Walk This Way(’86 London/Profile 12″)

 

このシングル

各国で曲目に違いがあるが

日本盤はB面がカラオケと”My Adidas”

VoとGrには勿論スティーヴン・タイラーとジョー・ペリーがフィーチャリング

当然の事ながらロックとラップの融合は本来的は意味での

プログレッシヴロックである事は間違い無い

 

当時

小生は外資系広告代理店でアディダスを担当する裏若きアートディレクターだったワケだが

時は戦国

アディダスを履いたRun-DMCの人気と初来日公演が迫っている事に注目した俺らは

まだそれ程熟成されていなかった日本の市場にこのまだ海の物とも山の物とも知れない

未知のムーヴメントをぶつける企画を提起した

駄菓子菓子

その頃のアディダスてのは日本発売元がデサントちうバリバリのスポーツ専門会社で

担当者の相撲部かラグビー部のOBみたいなオサーン曰く

. 「お前らバカか

.  ウチはスポーツ・ブランドでお客は運動用品店と部活

.   ファッション会社じゃねぇしラップとか知らないから

.    だいたい靴紐締めないと走れねぇだろうが」

強固に電車道状態で突っ張り四股を踏み続ける事しばし

むぅ士郎

現在のAdidasのファッショナブルなブランドというイメージからは信じられない事だが

当時はガチガチ硬派の排他的とも云っても良い体育系御用達グッヅだったのだ

また

この堅苦しくて古臭いブランドってイメージは日本だけで無く世界共通で

例えば

当時ビールCMの超軟派なロケ撮影でフィリピンに行った時に

普通にアディダスを履いてマニラの風ぞ・・・じゃなくてバーに入店すると

かわゆすおねぃさん達が俺の三本線のスニーカーを指差しむっちゃイヤそうな顔をしながら

「あんたその流行遅れのダサい靴どうにかしなヨーppp」と笑われたレベルなのだ

(あくまで個人的記憶です)

だいたい

オレの作ってたアディダスの日本版広告てのも

ドイツから送られて来たゲルマン民族的な広告写真/レイアウト/コピーを

白人様が敷いたワールドワイドな規則内でチマチマ日本語に翻訳するみたいなのが主な作業で

それがほぼほぼ全世界共通で展開されていたワケだが

(昔の外資系大手資本の広告はだいたこのパティーン)

ぶっちゃけ一般人には面白くも何ともないカタログ写真みたいな

一方通行的なコミュニケーション・ブレイクダウンな世界だった野田

 

そんな中!

何とか柔道部を説得→うっちゃり→突破して『ADIDAS×Run-DMC』企画を上まで通すと

当時日本のラップ神だった近田春夫師にイベントの総合プロデュースを依頼する為に

恵比寿駅にほど近い薄暗いオフィスにIN!

そこに御大と共に待っていたのが

タイニー・パンクス(藤原ヒロシ/高木完)の二人だったのは全く聞いていなかったが

企画を纏めている担当営業のオサーンが慶応で近田師の先輩だったらしく

普通に「近田お前さ〜○○○やれよ」とか云い出すので驚く事しばし(ry

んでででででででで

話が長いのとよく覚えてないのでかなり飛ばすが・・・

ツバキハウスで開催された『BPM Presents MY Adidas 大Party』は

平和の下に無事開催されたのだった

しかし日曜昼の2:00からってツバキに客来たのかなー?

チケットのデザインは俺

(長いので・・・つずく)

 

 

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